好きとは思考の停止であり、感受性の麻痺であり、すなわち大きな錯覚でしかない。私は好きという気持ちをそう考えている。
そして世の中にはこの錯覚に陥っている人、この錯覚に陥りたいと願う人、この錯覚から目が覚めた人がいる。
好きという気持ちはどれだけ大きなものであろうと決して続くことはない。
それは恥ずべきものではなく、当然のことなのだ。
どれだけ好きな食べ物であっても毎日食べていれば飽きが生じて受け入れられなくなるのと同じように、同じ人を好きでい続けることはもはや不可能とも言えるだろう。
しかしまた時間が経てばまた欲してしまったりもする。
それが好きというものではないだろうか。
そしてその好きという感情が無くなった時に残るものが愛だと私は捉えている。
「好きではない、だけど…」というこの「だけど」に続くものこそが愛なのだ。
好きではない、だけど私を大切に扱ってくれる。
好きではない、だけど私を受け入れてくれる。
好きではない、だけど私の味方でいてくれる。
そんな自分に向けられたものこそが愛なのだろう。
そして、それは相手にも同じことが言える。
愛とは受け入れること、許すこと、という言葉はまさにその通りであり、どれだけ相手の弱い姿を見ようとも、知ろうともそばにいようと思えることこそが愛なのではないだろうか。
初対面でそんな相手の弱さを見て好きになり、恋に落ちることはまずない。
だが、過ごした月日と与えられた優しさや思いやりの気持ちがそうさせるというその気持ちはとても美しく、尊いものだと私は考えている。
恋愛では大切なものほど見えにくいという言葉にもあるように、好きという浅いものは目に見えやすい、それは感情や欲求によって生み出されているものだから。
しかし,愛は目には見えにくい。それは我慢や想いという目に見えないものによって生み出されているものだから。
そしてそこから一つ言えることは、好きと違って愛は心に残るということ。
好きというものは目に見えなくなってしまえば簡単に消えていってしまうような案外脆いものであるのだが、愛は目に見えにくいものだったからこそ心と体が憶えている。
別れ、手放した後に相手の大切さに気づくというのも、手放した側が見えなかった愛に気づかされるからであり、手放された側が立ち直れてしまうのは自分が向けられていたものが愛ではなかったと気づくからなのである。という別れの後のパターンから考えてもらうとわかりやすいだろう。
好きという気持ちは時間と共に消えゆくものだが、愛は心と体が朽ち果てるまで決して消えることはない。それゆえに後悔という感情が存在するのである。
少し話が逸れたので元に戻すが、そもそも好きとは何なのか、自分が相手を好きなのかどうかということを迷ったり悩むこと自体が間違いであり、好きというものは愛を知る為のきっかけ程度のものでしかないことを理解していて欲しい。
親が生んだ子供を見た目や性格などは関係なしに無条件で愛するように、愛というのは言うならば一つの奇跡的なきっかけから生まれたものであり、そのきっかけに対して恩や情、責任といったものが合わさることで愛へと変わっていくのだ。
その対局の存在として今では育児放棄であったり、ネグレクトという言葉が散見する世の中ではあるが、彼らはそんなきっかけに重みを見いだせない哀れな人間である。
それは恋愛においても同じことが言え、そういった一つのきっかけに重みを見いだせない人間はいつまで経っても本当の愛情に気づくことも触れられることもない。
本当の愛に気づけないまま枯れていく、それほど哀れで悲しいことはないのではないだろうか。
なので今、恋をしている人たちは自分の好きという気持ちではなくて二人の間に愛は存在するのかに目を向けてみてほしい。
そして二人が出会い、恋に落ちたという一つの奇跡的なきっかけを大切にして欲しい。
私はそう思いながら愛していたが、愛されなかった身である。
だが、そんな経験があったからこそ今、恋で迷っている人たちに愛の大切さを伝えたい。
恋愛は別れないことが正解ではなく、別れて正解な場合だって存在する。
だが、どうかその別れの判断基準は好きという感情ではなく愛であって欲しい。
それだけで後悔という大きな心の傷を生まなくて済むからだ。
人生で失敗することは構わない、だが後悔はできるだけ少ない方が良い。
若いながらもそれなりの後悔を抱えている私は常々そう思っている。
なのでこの記事を通して、これからのあなたの恋に生まれる後悔が一つでも少なくなることを願っている。
あなたが素敵な愛に出会えますように。
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